真の犠牲とはー?

ずっと祈っている女性がいました。
彼女は長年祈りを習慣にしていました。
辛い状況がやってきた時、
「神様よ、どうか助けてください。あなたの力が必要です。」と真剣に祈りました。
悲しみの中にいる時、
「神様、どうか私をこの悲しみから救いあげてください。」と祈りました。
そして、彼女は「神を悟りたい。」とずっと思っていました。
しかし、彼女は悟りませんでした。
人生の状況は悪くなっていきました。
彼女は祈ったのに、
神を求めたのに、
なぜでしょうか?
彼女は、「欲しい」と言い続けました。
しかし、それだけでした。
彼女は、「自分」を変えたくなかった。
「自分」や「自分を取り巻く環境」や「人生への捉え方」を握りしめていました。
その中に、欲しかった。
「自分」や「自分の求める環境」に、助けが、神様の親切心が、それらが欲しかった。
「I want love」
という言葉の、want(欲望)を消します。
そして、I(自我、エゴ)を消します。
すると、Love(愛)が残ります。
これが、方法です。
これは、人生の方法なのです。
「欲しい」なら「明け渡す」ことが必要です。
明け渡しただけ、私たちは手に入れます。
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ずっと昔、クリシュナ神という神の化身がいました。
クリシュナは牧女たちに愛されていました。
牧女たちは、「自分は他の誰よりも神であるクリシュナを愛している。お使えしている。」と思っていました。

ある日、クリシュナが、とんでもない頭痛で地面に転がり込みました。
「頭が痛い!痛い!」
牧女たちはクリシュナを心の底から心配して慌てふためきました。
「クリシュナ様!私たちはどうすればよいのですか!あなたのためなら何でもします!どうぞおっしゃってください!」
牧女たちは口々に言いました。
「牧女たちよ、、!誰か、私の頭を思いっきり踏んでくれ。そうしたら、私の頭痛は治るのだ!」
あたりはしーんと静まり返りました。牧女たちはうろたえました。
(クリシュナ様の頭痛を治したいけど、自分が大きな罪をかぶってしまう、、)
この時代、男性の頭を踏むことは、とんでもない罪をつくると言われていたのです。
牧女たちは、足元でもがき苦しむクリシュナを前に、何もできずただもじもじとするだけでした。
すると、遠くの方から、苦しむクリシュナを見たひとりの牧女が走ってやってきました!
「クリシュナ様!!頭痛を治すには、あなた様の頭を踏みつけるのですね!」
そういうと、彼女はクリシュナの頭を思いっきり踏みつけました。
彼女は、自分の罪のことは頭にもよぎりませんでした。
ただ、クリシュナが望むようにしました。
他の牧女たちは、クリシュナ神を最も愛していると思っていました。
しかし、それは『自分の人生に犠牲を払わずに』というものだったのです。
それは、クリシュナ神しか知りませんでした。
ー
冒頭で紹介した、あの祈る女性は、ひどく暴力的で強い執着を持ち、自分を見下す夫に悩んでいました。
「神様、彼と別れたい。どうか、彼と別れさせてください。」
彼女は、10年祈り続けました。
そして、ある日、夢に神様がでてきました。それは、まさに彼女へのお告げでした。
「彼と別れる事ができます。別れなさい。」
彼女はとても喜びました!
しかし、彼女は1年たっても、2年たっても、その夫と別れる気配がありません。
ひとりの友人が彼女に
「神様からのお告げももらったのに、どうして、彼と別れないの?」
と聞きました。
彼女は言いました。
「夫と別れたら、私の生活はどうなるの?仕事もしていないのよ?家はどうなるの?神様は、いいパートナーかいい仕事を用意してくれるはずよ。神様は私を貧乏な独り身にしたいわけじゃないわ。今、神の恩寵を待っているのよ!」
それが、彼女の祈りの真相だったのです。
「I want career」
「I want god」
「I want peace」